千歳・富丘中学校 /岡田 一之
江別・大麻中学校 /高間 賢二
千歳・千歳中学校 /飯田 浩貴

■プロジェクト研究の方向性
 今年度は研究主題も変わったため、部会員の方々が理解しやすいような例示を、より多く出していきたいと考えています。
 また、3分野を見通した時、もっとも例示しにくい歴史的分野を中心に取り組むこととしました。

■例示1

 生徒にとって身近な生活の体験を活用しながら、授業の導入に生かすものとして起源・ルーツを考えてみた。工夫次第では授業として展開できるだろうが、そこまで欲張らずに、きっかけや興味付けとなる題材を考えた。


《みその歴史》
 古来縄文時代からある日本独自の調味料。

 奈良時代にはすでに文献にも味噌の原型と思われる未醤が確認でき、平安京の西市には未醤屋の存在が記録されている。このように古来より定着している食物といえる。未醤は現在でいうところの豆味噌系であったと推定され、麹が多用されるのは、後世の事であった。また、平安時代に書かれた書籍にも雑炊の味付けに味噌を用いた事が書かれている。

 かつては各家庭で作られており、「手前みそ」という表現が生まれた。室町時代になると、各地で味噌が発達し、調味料というよりは保存食として用いられるようになった。戦国時代には兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源になっていた。その名残は、朴葉味噌などに残っている。各地の戦国武将にも味噌作りは大事な経済政策の1つとして見られるようになった。現在のように調味料として認識されるようになったのは、江戸時代になってからであり、味噌は各地の風土・気候を反映されていて、熟成方法などが異なり全国に多様な味噌をもたらした。

【授業に活用できる場面】
東書 第3章第2節 東アジア世界とのかかわりと社会の変動 4民衆の成長と戦国大名

  この単元は戦国大名の登場とその支配について、応仁の乱や下剋上の風潮からとらえることを目標としている。ここで、各戦国大名の経済力について触れるとともに、兵力だけでなく様々な食品が支える戦国時代として多面的にこの時代をとらえるきっかけにすることができるのではないかと考える。味噌自体は子どもたちにとっても馴染みの食材の一つなので現在の価値との対比で考えてみても良いかもしれない。


《相撲の歴史》
 相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描写されている。

 『万葉集』の五巻に、天平2年(730年)4月6日と、次の年(731年)の6月17日に相撲をしたという記録がある。
聖武天皇(在位724年 - 749年)は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集した。毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したのである。こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称された。 平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となった。毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われた。相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたものであった。三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容があった。その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされる。

 宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。やがて実戦用の武術となった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。宮廷相撲であり、民間の相撲である。武家相撲であり、庶民の相撲であるが、とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力が遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があり、来渤海使も何度も日本へ赴いたなかで影響も推測される。

【授業で活用できる場面】
東書 第3章第1節 武士の台頭と鎌倉幕府 3武士と民衆の動き

 この単元は、鎌倉時代の武士の生活の様子や民衆生活を絵巻物や文献資料を用いて理解する単元である。ここでは武士が日常の武芸訓練のための流鏑馬がよく取り上げられるが、ここで相撲を取り上げることによって子ども達に馴染みやすい単元にできるのではないだろうか。また、子ども達の中で祭りの際に奉納相撲をした経験を持つことは少なくなったのかもしれないが、これが農耕儀礼であったり、平安鎌倉時代から神事相撲としてあったことを伝えることによってよりこの時代を理解させやすいのではないか。


《花火から鉄砲伝来を考える》

 花火は、日本の夏の風物詩である。生徒たちの多くも、夏を迎えると花火を楽しみにしており、日常生活の中で身近な存在となっている。

 観賞用花火の起源は中世のイタリアにあると言われ、日本でも伊達政宗や徳川家康が楽しんだとの記述が、『古事類苑』などの古文書から読み取れる。江戸時代には、広く民衆にも親しまれるようになり、江戸後期に活躍した浮世絵師・歌川広重が「名所江戸百景」の中で「両国花火」を描いたのは、良く知られるところである。

 このように、今も昔も人々の心を掴んで離さない花火であるが、周知の通り、起源は中国で発明された戦で用いるための黒色火薬にあり、日本へは1543年の鉄砲伝来と同時に持ち込まれた。すなわち、武器としての火薬が、戦国時代の終焉という時代の趨勢により観賞用花火の材料へと転化していったのである。ここには、新たな幕府を築き上げた徳川将軍家が鉄砲の生産・所有を制限したことも影響している。関ヶ原の戦いの頃には世界の約半数に上る5万丁の鉄砲があったという日本にあって、この強力な武器を統制することは、強固な支配基盤確立のためには不可欠であった。このように、観賞用花火の普及は鉄砲伝来に始まり、戦国期〜江戸時代までの政治体制にもつながるのである。


【授業で活用できる場面
東書 第4章第1節 ヨーロッパ人との出会いと全国統一

 本単元では、「戦国の動乱とその時期のヨーロッパ人の来航について理解させるとともに、その文化の伝来がわが国の社会に及ぼした影響について考えさせる。」ことがねらいとして挙げられている。中心的に扱うよう記されている「新航路の開拓」を、三大発明の一つである火薬の普及に焦点を当てて展開しても良いし、文化の伝来が及ぼした影響として鉄砲を扱うのと絡めて、その後に普及することとなる観賞用花火に触れても広がりが生まれて面白いのではないか。
 また、節を進めて江戸時代の町人文化のところで、鉄砲伝来の振り返りとともに扱っても良いと思う。


《原油価格の高騰から石油ショックを考える》

 昨今の原油価格高騰は、世界経済を震撼させるのみならず、私たちの生活にも大きな打撃を与えている。

 石油の歴史は、大量生産・大量使用という点ではそれほど古いものではない。むしろ、ごく最近のものと言った方が妥当であろう。イギリスで産業革命が起こった18世紀後半以降、欧米を中心に工場制機械工業が急速な普及を遂げ、19世紀半ばには石油需要の高まりから石油メジャーによる油田開発が進められた。20世紀中盤になると、資源ナショナリズムの見地からOPECが結成され世界の原油価格決定に大きな影響力を誇ったが、産油地域の拡大などにより80年代からは市場により価格が決定されるようになった。1970年代の石油ショック以降、21世紀初頭まで原油価格は下落傾向にあったが、2003年のイラク戦争を機に上昇へと転じ、中東情勢や途上国の石油需要増大、投機筋のマネーゲームなどといった複数要因が重なって、現在の記録的高騰に至っている。

 現代社会、とりわけ日本を含む先進工業国は、燃料としてのみならず、工業製品製造の原材料としても石油に大きく依存した生活を送っている。国際原油価格が、1バレル100ドルを簡単に突破し、一時は150ドルにまで迫った今日、「第三次石油ショック」とまで危惧されているその影響は子どもたちの目にも明らかであることから、様々な切り口で授業に結びつけることが可能であると考えた。

【授業で活用できる場面】
東書 第7章第2節 国際社会と日本

 本単元では、「高度経済成長以降の我が国の動きを世界の動きと関連させてとらえさせ、経済や科学技術の急速な発展とそれに伴う国民の生活の向上や国際社会において我が国の役割が大きくなってきたことについて気付かせる。」ことがねらいとされ、石油ショックなどの「節目となる歴史的事象」を取り上げて扱うよう指摘されている。この石油ショック(ここでは第1次が中心)時の国民生活について、今日の原油価格高騰による日常生活への影響を想起させながら展開すると良いのではないか。
 また、地理的分野及び公民的分野との有機的なつながりを意識することが特に求められている単元であることから、歴史的分野のみならず、地理的分野・公民的分野での扱いにも有用であると思う。エコや代替エネルギーの開発、有限エネルギーをめぐる南北問題、経済摩擦、採掘・領有権問題など、活用の可能性は幅広い。